hoho!

みえないものをさわる

のーんすたーいぅ

けれどもやっぱり、気持ちの持ちようという言葉には違和感を覚えてしまう。私自身、小さいころはままごと遊びがすきでしたから、その名残といってはお恥ずかしいですが自分をこんなところでこんなことをしているべき人間ではないのだと少し空想の世界にぶっ飛びますと、つらいと思えることもなんとなくストーリーチックに流せることを体感する日々なのであります。紙一重で少し健全な方向へもって行くと、これは状況を客観的に、見るということとさしてかわりがないように思えます。自分の本来の姿を、今の現状と別のところへ据え、そこからイマをみるのです。しかし本来の日本語の意味での客観的とは、主観または主体を離れて独立に存在するさま、なわけであるから、主体を離れないことにはお話になりませんので、あくまでおおよそ客観的的、ってことでよろしく。んで気持ちの持ちようでいろいろ変わるっていうのはあくまで面している問題が簡易なものである場合に限るわけで、なにか人生を成功させたらしい「賢人」たちが「どんな状況も気持ちの持ちようで大いに変わる」という類のことを口々におっしゃるわけだけれど。気持ちの持ちようで全てが変わるなんていうのはすごく愚かしい話だってことをいいたいし、逃避というのは元の地点に着地することを案に示している言葉だと考えるから、結局は現実を色濃く意識せざるを得ないということも、いいたいです


なにがなんだか。笑


ブログの下書きがたまりにたまってるから適当に放出_(: 3」 ∠)_